蛍光色に浮かぶ寿司

colorless white sushis sleep furiously.

学歴主義 傾向とその対策

 6時29分。のぞみ400号は定刻通りに京都駅を発った。9号車、指定席の車内は十代後半の子女と、四十代後半の母親に溢れている。

 車内を明るく照らす暖色とは相反して、車内の空気は冷たく、そして濁っていた。静かな呻声、嘆息、嗚咽。車内の隅から漏れる微かなノイズが、諦念、虚無、絶望といったあらゆる種類の負の感情で車内を満たす。

 このような深刻な状況は、災禍的な天変地異や、あるいは非条理な凶悪犯罪によって招かれたのではない。それどころかこの絶望は、あらゆる物理的暴力を伴わず、純粋に形而上的な、あるたった一つの価値観によって地上に生じたのだ。

 その価値観こそ、学歴主義。我々を徹底的に痛めつけ、苦しみを刻み付ける21世紀の怪物なのである。

 

 先週、私は二泊三日である京都の大学を受験しました。一日目の夜、非常に率直に言えば、受けた感触は極めて良好で、私は明日の準備と自慰行為を済ませると、笑みを浮かべながらこれからのことについて考え始めました。学部での授業のこと、京都での生活のこと、そしてついに手にいれることができた、念願の「学歴」というステータスのこと。

 学歴は欲しいです。学歴は最高です。学歴さえあれば何でもできます。東大に合格すれば三浪でも総勢6人もの美少女に告白される*1というのですから、京大現役合格ならばせめて2人くらいは獲得できるでしょう。学歴とは権威であり、権威とは正義であり、この世界に存在するどんな貴金属も学歴の価値には遠く及ばないのです。

 学歴最高……学歴最高……!ホテルのベッドカバーの上に大きく寝転がり、スマホ私のブログを引用した哀れなる友人の記事を鼻で笑いながら、私はこの武器の切れ味を最大化する方法について考えていました。そしてブログのことを思い出しました。私はそこで反学歴的な発言を繰り返していました。当然自身の勉強不足を正当化するための口実に過ぎなかったわけですが、このまま学歴を得ては整合性がとれない。そうだ、自身の本心を偽って、学歴を得た立場にありながら反学歴主義的記事を投稿するというのはどうだろうか?

  私が受験生活の間長いこと所属してきたネットコミュニティは、いわゆる自虐コミュニティというものでした。

 人間以外の霊長類の多くも、我々人類と同じように社会性を持っています。そこで作られる共同体、すなわちコミュニティには上下の別があります。群れにはリーダーがいて、その下には幹部が、さらにその下には手下のサルがいるのです。その上下の決定はサル同士の力関係によって定められます。威嚇や格闘によって、強いと認定されたサルが上へ、弱いと認定されたサルが下へと行くのです。

 自虐コミュニティは違います。自虐コミュニティにも当然上下の別があり、上を目指して各アカウント、すなわちサルは示威行動を繰り返すわけですが、そこで上に行くのは弱いサルであり、強いサルはむしろ集団から蹴落とされて下へと向かうのです。*2

 私はこの受験を通して、より社会的に強いステータスを得てしまう。そうすればネットコミュニティからは排斥されてしまう。さすがに避けたい事態でした。しかし反学歴主義を掲げ続ければ、私は表面上自虐コミュニティでの立ち位置を保持できるのではないか?

 さらに言えば、学歴を否定することによって、私は逆説的に自身の学歴を誇示することができます。「学歴を否定する高学歴」……なんと魅力的な言葉でしょうか。そうしよう……帰ったらブログの更新をしよう……。帰りの新幹線の中で書き出したという想定の下、そうして一日目のベッドで、明日試験が控えているというのに書かれた出だしが上の文章になります。よく見ると自分の状況については言及がありませんね。性格のクソさが思いやられます。

 一日後、私の容態は急変します。

 

 二日目終了後、荷物を預けていたホテルへと市バスに乗りながら、私は長い溜息を吐きました。手に握られたスマホは、某大手予備校の解答速報を映し出していました。バスに座るなり真っ先に数学のページを見たのです。*3なぜかといえば、数学は昨日行われた科目で、最も自信があったからです。私は「解答」をタップしました。そして絶望しました。そこに映し出された模範解答は、私の解答の数字とそれぞれ微妙なズレを示していたのです。

 焦りました。国語のページもクリック。絶望。私はこの人たちと同じ文章を読んだのだろうか?二日目の解答はまだ出ていないから、一旦ブラウザを閉じて、ツイッターを開く。

 するとそこには京大受験者と思しき者のツイートがありました。それが言うには、「世界史の論述問題は二つとも河合の模試で既出のものだった」とのこと。

 諦念。虚無。絶望。

 トルコ人のイスラーム化、イギリス・プロイセンにおける啓蒙思想の受容、という二つのテーマは、どれも切り口は鮮やかであるように見えながら、実際には広範囲の時代や事物を結びつける高度な知的能力が要求されました。つまり、私には無理だったのです。

 しかし、私ができない問題は、きっと他の受験者も出来ていないだろうと予想していた。それが……それなのに……。私は東進、代ゼミ駿台の京大模試を受けておきながら、河合の模試は一つも受けていなかったのです!

 呻声、嘆息、嗚咽。新幹線の中、私が漏らしたノイズは、きっと自由席*4のサラリーマンに溢れた車内を賑やかにしてくれたことでしょう。

 

 私は反学歴主義に断固として反対します。受け入れられない。私は深刻に抗議します。真剣に主張します。理性も感情も出てきません。出てくるのは、そう、正論――正論です。

 

1.廿一世紀之怪物学歴主義

学歴主義 Gakurekism

人の価値を評価する尺度として学歴を重視するさま。高学歴であることに高い価値を見出し、低学歴の者を侮るさま。

- 実用日本語表現辞典*5

 さて、自虐コミュニティの話にも少し出てきましたが、共同体には上下の別があります。それはSNSのような小規模のものに留まりません。むしろ我々が生きる「世界」という社会こそ、一種の階級構造を明らかにしているといえるでしょう。

 近世まで、我々の上下を図るのは身分でした。それは本人の努力によって変えることはできず、生まれ持った身分によってどんな一生を送るかが定められていました。農民の子は農民であり、定められた小作地を耕す運命にあり、本人の素質はそれに影響しなかったのです。

 この時代、下層階級の存在は人権意識の未発明により正当化されていました。農民は確かに人間だけれども、人間という概念は均一なものでないから、差別は正当化されました。背の高い人間、低い人間がいるように、身分が高い人間、低い人間が存在するのは当然だったのです。

 近代に入り、人権という概念が発明されました。どんな親の下に生まれようと人は平等である、という考え方が不完全ながらも浸透していきました。しかし共同体は支配者層と被支配者層の別なしには成立しません。よって、既存の身分構造を一旦破壊したのち、再び支配者階層が構成されました。近代市民革命は支配構造の破壊を達成したかのようにみえて、結局支配構造の再構築を果たしたにすぎなかったのです。

 さてどんな時代にも、支配者階層の支配を恒久化させるためには、被支配者層に支配の正統性を示す必要がありました。前近代においては、この役目は身分が果たしていました。インドを代表とする東洋では特に、身分差は輪廻の概念と結びつくことで、支配の大きな楔となりました。しかし近代に入ってはどうなったか。

 生まれの差を否定しなければならない以上、身分制度はもう使えませんから、生まれとは表面上切り離して、本人の支配適性を評価しなければなりません。予測能力がある、頭が切れる……。一方で支配適性は万人に客観的に明らかにするのは難しいものです。「支配に必要な高度な能力を備えている」ということを、その高度な能力を持たない民衆にどう伝えるか?

 そして作り出された権威が学歴だったのです。

 大学教育は確かに支配の道具になりうる学問を教えるわけですが、その道具の習得具合は被支配者層には理解できず、そもそも客観的な理解も難しい。そこで大学に序列をつけ、卒業大学の序列は習得具合、すなわち本人の優秀性と必ず一致する、というイメージが生まれました。これは大学の中身それ自体より名前を重視するわけで、大学のブラックボックス化ともいえます。このブラックボックスは理解の容易性からほとんど全ての民衆に受容されました。

 学歴に優劣をつけることによって、より上の者が下の者を搾取する行為は正当化されました。優れた人が上に立ち、劣った人々を支配し教化するというのは、西洋では教会組織(ヒエラルヒー)から、東洋では孔子に始まる儒家思想に至るまで、ほとんどの文化で普遍的に評価される構造だったからです。

 しかし、大学のブラックボックス化が際限なく進んだことで、多大な副作用が生まれました。過熱しすぎた受験競争はよく言われることですが、それに加えて「大学」への就学自体が優秀性を高めることから、本来大学に行く目的である学問に興味の無い人々が入学することが増えました。出世するために、とりあえず大学に行く。これはやる気が無く授業に出席しない学生を増やし、学問への適性を持つはずの人々の枠を逼迫するしました。

 逆の現象も言えます。本来学問に興味があるのだが、その学問を勉強できる大学の学歴的価値が低いから入学できない、あるいは親が許してくれない。例えば文学部と政治経済学部の合格を貰っているときに、本人は言語学を勉強するために文学部に行こうとしているのだが、親は政治経済学部への入学を強引に迫ってくる。この災禍的かつ強権的、悲劇的な人権侵害はすべて、学歴主義と密接に結びついた大学のブラックボックス化によって引き起こされたのです。

 さらに学歴は支配階層を固定化します。なぜならば学歴は親と子の間に強い相関関係があるからです。高学歴の子は容易に高学歴になりやすいということであり、言い換えれば高学歴でも親の学歴が高いなら当たり前だということなんですが、これ以上言うと同級生の自尊心を破壊しそうなので黙っておきます。これらの事実は科学的に証明されているものなので、興味があればフランスの社会学ブルデューの著作を読んでみるといいと思います。

 

 とまあ、このように学歴主義は支配の必要性から生まれ、我々を21世紀に至るまで苦しめ続けている怪物なのです。確かに支配の正当化というのは社会の安定のためには必要でしょうが、学問機関にすぎない大学を一種の身分にまで仕立て上げるのは、誰にとっても幸福な結果は生まないような気がします。

 

2.受験界のサティヤーグラハ

 侵略者の暴力に暴力をもって応えるようなことはせず、侵略者の不法な要求には、死を賭しても服従を拒否する――それが非暴力の本当の意味です。みなさんが非暴力の剣で武装するとき、地上のどんな権力もみなさんを征服することはできません。

- マハートマ・ガンディー 「わたしの非暴力」より

 

 それでは学歴主義という怪物にどう立ち向かえというのか?あなたはひょっとするとこう考えるかもしれません。学歴主義をこの地上から消し去るためには、官僚組織、予備校、とにかく東大入りを薦めてくる進学校の担任教師、そういうものを物理的に破壊すればよい、と。

 それは違います。全くもって正しくありません。*6どんな理想的な理念も、それを暴力的に押し付ければ崩壊してしまうのは、ジャコバン派ボリシェヴィキを筆頭とするあらゆる歴史が証明しています。

 学歴主義を消し去る方法は実は意外とシンプルで、拍子抜けされる方もいらっしゃるでしょう。その方法とは、「自分が学歴主義に従わない」という、ただそれだけのことなのです。

 考えても見てください。学歴主義の圧力は、よくよく考えれば実体を持っているわけではありません。学歴という権威を高めているのは、単なる「学歴は素晴らしい」という一社会における共通認識であり、それを失えば学歴は血液型くらいどうでもいいものになるでしょう。誰もが重要だと思っているから学歴は重要なのであり、誰も思わなくなれば学歴は重要ではなくなるのです。

 本心ではみんな、学歴主義なんて放棄したいと思っています。真剣に学歴の優秀性を信じている者などごくわずかで、多くの人たちは学歴主義のデメリットに気づいています。でも、周りはみんな信じていると思って、必死に目を瞑って受験勉強をしている、あるいはしてきたのです。

 確かに、あなた一人が学歴主義を放棄したところで、社会全体に対しては微々たるものかもしれない。でも、学歴主義に疑問を覚え始めてきたあなたの友人たちがあなたに賛同して放棄すれば、さらにあなたの友人の友人も賛同するかもしれない。社会とは結局個人の集合体に過ぎないのですから、こうして反学歴主義の輪が広がっていけば、社会から学歴主義が消える日は近いでしょう。

 ここで強調しておきたいのは、学歴の能力を図るものさしとしての有用性の性質です。第一節で述べたように、学歴主義は大学のブラックボックス化と密接に結びついています。優れた大学を出た人物は優れているというイメージがあるわけです。

 しかし、あなたが学歴主義を放棄して、劣った大学を出たとしたらどうなるか?周りの人はおそらく、学歴に反して優れているあなたの能力を見て、学歴というものさしを疑うでしょう。あなただけでなく、どんどん周りの人たちも学歴に反した活躍を見せることになれば、どんどん学歴の有用性は疑わしくなるでしょう。そうすると学歴主義の圧力は弱まる。さらに優秀な人材が低い学歴から登場する。こうしてあなたの決断を元に、加速度的に学歴主義は崩壊していくのです。

 だから、学歴主義を倒したいとあなたが思ったとき、あなたが優れていると思うのだったら、低い大学に入ればいいのです。それは学歴主義への抵抗になります。逆に自分より頭が悪いようにしか見えない人が高い大学に入っても、それはむしろ喜ばしいことなのです。学歴というものさしに、また一つ傷が刻まれたのです。

 周りはあなたに学歴を誇ってくるでしょう。それに関心を向けないあなたを愚かだと笑うでしょう。しかし人間は、あらゆる暴力をもってしても、あなたの心に宿る反学歴主義の炎を消すことはできない。あなたが学歴主義を冷笑しつづける限り、学歴主義は完全たりえないのです。

 さあ、落ちよう。それは学歴支配への非暴力不服従運動になる。*7 *8

*1:赤松健ラブひな』14巻参照のこと。ラブひなは劇薬。

*2:例として、医学部を目指して二浪していたボスザルが、ついうっかり私大医学部の合格報告をしたためにフォロワーが激減した例が挙げられます。そのサルは私大を蹴ることによってなんとか威厳の回復を図りましたが、二度と彼のフォロワーが戻ってくることは無かったといいます。

*3:私は普段車に乗りながら画面や本を読むと一瞬で酔う体質なのですが、京都のバスは渋滞でほぼ停止した状態なので酔うことはありませんでした。

*4:私に指定席に乗る権利などありません。

*5:英訳は筆者注

*6:ただ個人的には担任教師は物理的に破壊されてほしい。

*7:政経も蹴ろう。

*8:2016/3/9追記:京都大学文学部、無事に合格しました。学歴主義最高w