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蛍光色に浮かぶ寿司

colorless white sushis sleep furiously.

森林資源保護演習Ⅰ

 四月初めの新入生の健康診断に合わせて、各サークルが趣向を凝らした歓迎イベントを行う紅萠祭という行事は、今より何十年も前から、あるいはひょっとすると百年も前からずっと続いてきたものらしい。まだ見ぬ優秀なメンバーを引き入れるため、サークルの在校生が正門奥の広場にテントを並べ、お菓子とジュースを誘蛾灯とし、迷い込んできた新入生を言葉巧みに自分たちの仲間へ加えようとする。その見かけは汚らしくも思えるが、よく考えればこれもなかなか風情のある伝統で、林見は昨年新入生の側にいたとき、それなりに心が打たれたものだ。そして2回生となった今年からは、自分が伝統を演出する側に回ったのだと考えると、自然準備にも力が入ってこようというものだった。

 彼の所属しているサークルの規模は小さく、テントを持つことこそできなかったが、ビラ配りの列には他の団体と同様に参加していたので、あどけない顔をした新入生たちに紹介文を押し付ける役目は彼にもあった。彼の担当は明日の午前早くということで、端末に話しかけて照明を遠隔操作で消させ、林見は普段より早めに寝ることにした。

 ところで「ビラ」とはどういう意味なのだろうか?眠りに落ちるかたわら、ふと彼は不思議に思った。

 

 少しでも自分たちの団体を新入生たちに印象づけようと、どの団体も大きな声で自分たちのサークル名を叫んでいるのでやかましい。4回生の先輩に聞けば毎年そんなものだということだが、今年は両隣を体育会系団体に囲まれたため、先輩も煩そうに眉をしかめていた。

 健康診断の受付に並ぶ新入生の列の両側を挟むようにして、紅萠祭のビラ配りの数十メートルの列は形成される。林見とサークルの仲間たちはその長い列の真ん中くらい、曲がり角のおかげで新入生が停滞する絶好の位置に陣取ったのだが、生憎その場所は体育会系にも人気が高かった。汗のにおいと野太い叫び声に照りつける太陽もあいまって、まだ午前中だというのに林見はすっかり参ってしまいそうだった。

 とはいえ少しでも多くの新入生を獲得することがサークルの発展に役立つことは事実なので、彼は歯を食いしばりながらなんとか新入生の列にファイルを配ろうとした。また一人正面を通る新入生の、その左腕に巻かれた端末めがけて、林見は自らの端末を差し出す。

 ぴろりん、という拍子抜けな、しかし聴きなれた音が響いて、新入生の端末には「ファイルを受信しました」と表示された。新入生はそのまま歩みを止めずに前へと進み、待ち構えていた次のサークルの勧誘員から差し出された端末を自らの腕へとかざしていた。ぴろりん。一方で林見もまた、次の新入生の端末を目ざとく見つけ、自らの端末をかざした。

 

 二〇六六年現在、「ビラ配りの列」はこうしてウェアラブル端末同士のbluetooth通信を半ば強要することで、新入生のプライベートクラウドに自分たちのサークルの紹介ページを送りつける列になっている。今朝ここに来る道中に検索して知ったのだが、ビラというのは紹介ページをわざわざ印刷した書類で、数十年前まではこの印刷書類を物理的に新入生に手渡していたそうだ。なんて非効率的なんだ、と林見は密かに憤った。印刷物ということはハイパーリンクも無いのだから、興味を持った新入生をサークルのウェブサイトに訪問させることもできないし、双方向性も無いのだからこちらへ連絡することもできない。そして何より、貴重な紙資源を湯水のように使うとはいったいなんて前時代的なのだろう。


 環境保護意識の高まりと二〇三八年のバンクーバー協定をきっかけに、配布を主目的とした私的印刷は日本でも規制を受けるようになった。印刷業界などは大きく抗議の声を上げたが、既にグローバルスタンダードは環境保護側に回っていること、そして業界が風前の灯だったこともあって、印刷行為は違法行為、というのが当然の価値観になっていった。オンラインショップからも印刷に用いられるプリンター、インク、紙などが消えると、しばらくはオークションで普通紙が一枚数万円の価格で取引されたものだが、印刷用具はもともと耐久性に劣る道具だ。数年もしないうちに印刷行為はまったく過去の禁忌になってしまった。

 しかし印刷が犯罪化されたにも関わらず、政府の監視をかいくぐって印刷行為をはたらくヤミ印刷所というものが存在した。高度なAIやネットワーク監視の目を逃れられる紙媒体は、検閲を避けたい犯罪的なデータ――テロ組織の兵器配置図から二次元ポルノ画像まで――を保管するための絶好の手段として用いられたからだ。ヤミ印刷所がいくつあるのか、どこにあるのか、具体的なことは誰にも何も分かっていない。しかし犯罪組織への家宅捜索が入るとき、きまって非合法な印刷物が押収されるので、裏にはヤミ印刷を媒介する犯罪ネットワークが存在するのだろうと目されていた。

 

 午前十一時を回った頃、サークルの同回生がやってきて、ビラ配りの役目を変わってやると言ってくれたので、林見はありがたくその言葉に乗じることにした。列をおもむろに離れ、彼は腹ごしらえをするために中央食堂へと向かう。大学構内は列を離れた場所にも、いたるところで紹介文書を送信しようとする在校生たちの姿があり、なかでも派手なピンク色のTシャツを着た某体育会系サークルはひどく目についた。

「すいません」ピンク色の部員の一人が、林見に声をかけてきた。「新入生の方ですか?」

「……いっ、いえ」林見は小声で声を詰まらせながら答えた。部員はとても図体が大きく、彼はすっかり萎縮してしまった。

「どっちですか?」聞き取れなかったのか、部員は重ねて質問する。そのいかつい顔もあいまって、彼の言葉は詰問口調に思われ、林見は蛇に睨まれたカエルの気分だった。

「……どっち、というのは……」

「新入生ですか?そうですよね?」体育会系のその口調はひどく強いものに感じられ、林見はつい「……はい」と彼に応じてしまった。

「そうか。それは良かった」部員の口調は途端にタメ口へと変わり、「ちょっとここじゃなんだから、少しあっちへ行こうか」と言って林見の肩を掴み、ほぼ連行するように古い校舎の蔭へと連れて行った。

 暗い場所だった。さっきまであれほど聞こえていたはずの勧誘の声が嘘のように、この狭い空間を静けさが覆っている。

「僕たちはアメリカン○○というスポーツをやっている□□ズという体育会系サークルだ。もう詳しい説明はビラロードで受信したろう?だからそれはどうでもいい」

 少し声を潜めて話す彼の背が、自分より頭一つ分大きいことに林見は気づいた。

「だから……これを受け取ってくれないか」部員はとびきり低い声でそう言い、カバンの中から薄く白いシート状の何かを取り出した。林見は息を呑んだ。それはまさしく、違法メディアであるところの『ビラ』だったからだ。

「ひっ」林見は一歩後ろへと飛び退いて、息も絶え絶えに言った。「なんでこんなものをっ」

「驚くのは分かる。君も噂に聞いているだろう、これはヤミビラだ」

「……電子ファイルじゃ、ダメなんですか?」

「僕も確かにそう思う。だが、ビラと呼ばれる紙をどれだけ多く配れるか、これは我が部が昔からずっと取り組んできた課題なのだ……」

彼は声を潜めて語る。

「我が部をはじめとする体育会系では、全体の中で極僅かともいえる、優れた運動能力を持つ新入生をどれだけ引き込めるかに部の実績がかかっている。だから、優秀な部員を数多く勧誘できた部員というのは、普段部内でどんな立ち位置であろうとも、一定の尊敬を集めたものだった……自然、どれだけ多くの優秀な人材を集められるかというのは、部員同士での競争ごととなったのだ」

「しかし争いは長く続くうちに本来の目的を忘れて、至極計量的というか、いかにも単純な競争となってしまった。その評価基準は、『どれだけ多くのビラを新入生に配れるか』であり、多くの部員はこの争いに勝つため、全く運動に見込みがないような新入生にも所構わずビラを押し付けた――しかも何度断られてもしつこく引き下がった。ときには一回生の講義室の机にビラをばらまくこともあった。ただ純粋に、チームメイトよりも大量のビラを捌いて、チーム内での栄誉を受けようとしたからだ。争いはどんどん過熱し、二十一世紀にはもっとも多くのビラを捌いた人間が部の年誌にも記載されるようになった」

「環境意識が高まり、印刷行為への風当たりが大きく強まりながらも、チーム内での競争のためにビラ配りはやむことがなかった。バンクーバー協定の批准を受け、ついに本来のビラ配りは非合法化されたが、それでもヤミの手を借りてまで配ろうとする先輩がたくさんいたと聞いている」

 部員は一呼吸置くと、もう一度林見の顔を見下ろして続けた。

「どうかこのビラを受け取ってはもらえないか。確かにこれは違法行為だ。社会的に望ましくはないかもしれない。しかし、環境保護なぞのために先輩たちの伝統を曲げ、ビラ配りをやめるのは僕の信条が許さない。常識、法律、そんなものより伝統を重視する姿勢こそが、部への愛、部への献身といえるんじゃないだろうか」

 林見は彼の盲目的ともいえる演説を聞きながら、昨年の十一月に行われた学科ガイダンスで言われたことを思い出した。そしてにやりと笑った。

「分かりました、受け取ります。ありがとうございました」林見が短く言うと、部員は喜んでビラを差し出し、これで四枚目だ、暫定一位の部員まであと一枚に迫った、と口走りながら去っていった。

 

 2066年。政府や産業界の強い要請に応えて、林見のいる大学は知と自由の学問の場としての性格を失い、単独で利益性があり、かつ国のために活躍できる人材を育成する場へと大きく転換しつつあった。その一環として手始めに人文系学部は廃止も視野に入れて再整理され、文学部は消滅、法学部も憲法研究室が解散した。

 林見の所属する農学部森林学科は廃止されることこそ無かったものの、五十年前とは大きく姿を変え、教養課程は基本的に無くなったし、一年の頃から時間割のほとんどを必修科目が埋め尽くしていた。道徳の授業も必修だった。そして昨年の秋に彼が聞いた学科ガイダンスで名が挙げられた、2回生配当の科目の一つが、『森林資源保護演習Ⅰ』であった。

 教授の話によれば、その科目は課内では合同の、課外でも自主的なフィールドワークを行うものであり、その内容は『ヤミ印刷物の回収・ヤミ印刷業者及びクライアントの発見』であった。曰く、収集したヤミ印刷物の数が多ければ多いほど評価は高くなり、特に目立った活躍をすれば中央官庁への推薦も十分にありうるということだった。

 

 林見は黙って手中のビラを見つめた。サークル活動に熱心だったかわりに学業には励めず、一回生の時点で単位は低空飛行であったが、このビラを差し出せば教授はどう評価してくれるだろう?数枚ではなく数十枚、ひょっとすると数百枚単位でのヤミ印刷だ。あの部全体へと司法のメスが入れば、林見は記録的な大告発者として、歴史に名を刻むことさえできるかもしれない。

 林見はゆっくりと農学部教務掛へと向かった。この一枚のビラは数十人ものアメフト部員を地獄へと落とす代わりに、自分を出世街道へと導いてくれる素晴らしい切符だ。口角から笑みがこぼれるのを、彼は隠すことができなかった。

 

 教務掛につくと、白けた目をした事務員が彼を迎えた。

「ECS-IDが無効です.e-Learning 情報セキュリティコースを受講してください.」

 よく見るとそれはよくできたAIだった。2066年。ついに助成金を打ち切られ、学校債を発行するようになった大学は、利益の最大化のために人員を可能な限り削減していたのだった。