蛍光色に浮かぶ寿司

colorless white sushis sleep furiously.

やる気とはなにか

※理性が逮捕された理由については過去記事を参照してください。

 東京拘置所は日本最大の拘置所だ。天へと屹立する中央監視塔には、拘禁者の暮らす独房や雑居房のある二棟の収容棟が左右対称に建っており、その地下には死刑を執行する刑場が沈黙している。初めに訪れるときは誰でもえもいわれぬ恐怖を覚えるというが、日常的に通うことが仕事である者にとっては、あるいはそこに四六時中居ついている者にとっては、その恐怖は漫然として薄れていくものだった。受験生が迫り来る不合格についてどこか客観視し始められるように、誰でも恐怖の懐柔は行えるものなのである。

 二人の年老いた女性看守に半ば強引に引っ張られながら、理性はもう何度目かの廊下を進んでいた。老朽化の進む収容棟のそれと違って、監視塔――本来の名前は監視棟だが、塔と呼ぶのが彼女は好きだった――の照明は明るく暖かだ。窓ガラスも収容棟のように分厚く曇ってはおらず、外の風景はクリアに、ダイレクトに目に入ってくる。ここに来てはや一年。判決を言い渡される日がすぐそこに来ているのは確かに恐ろしいが、しかしそれで一旦この息の詰まる環境を変えられると考えてしまうと、少し楽しみな気持ちを覚えずにはいられなかった。いつからか受験生が迫り来る受験日を迎え入れ始めるように。

 二人の看守がある扉の前で止まって、何やらカードを取り出して機械にかざし、短く高い電子音をかき消すように扉を開けた。中は何度も見た面会室。殺風景をかき消すために改装工事が行われ、壁面は木目調の温かさをこぼし、同じく木目のテーブルの端に置かれたユリは鮮やかに白く咲いていた。ここの設備は中に入れば杜撰なることこの上ないというのに、外から見えるところは綺麗で明るい。自分が中に入ることは絶対に無いから、外から見に来る人はそれだけを見せられて満足げに帰っていく。まさしく受験生の通っている中高一貫校のような状況だった。

 しかしそれでも、こちらと向こう側を隔てる一枚のガラスだけは、その透明性がはらむテクストのためか、どこか冷たい印象を抱かせるものであった。そして。

「お久しぶりです。ご様子はいかがですか」黒いスーツにこれ見よがしに金色のバッジを輝かせた、小太りの中年男性は、彼女の弁護を担当している国選弁護人だった。

 

「久しぶりじゃないわ。毎日毎日、まるでブログの更新をしているかのように、一々こっちに来やがって。だいたいもうあなたの用件は分かってるわよ。明日から口頭弁論、だから私が言うこと、あなたが言うこと、齟齬が出ないように確認をしましょう、とそういうことよね?」理性はまくし立てた。この小太りの中年弁護士に対して、彼女は本能的な不快感を感じていた。できることならば会うのはこの件で最後にしたかった。

「はい。とはいえ大半はもう予め伝えたとおりのことですが」

「ならもういいわよ」

「いや、そうですか」弁護士は口を開く。「それならば良いですが。裁判員裁判情状酌量に弱いから殺人は仕方なかったという体で攻める。あなたは感情に以前からしつこく嫌がらせを受けていて、セクハラ、マタハラ、学歴自慢、その他あらゆる権利侵害を受けていた。あなたはやめるよう再三口頭で注意した。しかし感情はやめなかった。だからつい――あるときカッとなって殺ってしまった、と」

「ええ」

「しかし前にも伝えましたとおり、死体の損壊状況から見るに相手に対する敵意は相当のものを感じ取られることは避けられません。もちろん殺人罪は認める必要があるのですが、有期刑を望むのだったら、あなたが裁判員に与えるイメージ、印象を良くしていかなければなりません。受験生が親に対して勉強している姿を示すように、上っ面だけは良くしていかなければなりません」

「分かってるわ。ええ。受験生のように理解している」

「そうですか。そこでこの服を」

 弁護士が差し出したのは半袖の白いカーディガンだった。わざとらしいフリルがついている。

「これは?」理性は動揺を隠せなかった。

「潔白性を示すための衣装です」弁護士は臆しもせず言った。「これは初日の衣装ですが、弁論中この類のかわいらしい服を着れば必ず刑は軽くなるでしょう」

「いやいや」

「さあ」弁護士の目の中にあるのは明らかな好奇、好色だった。「いま試しに、着替えてみてください」

 弁護士は持っている服を看守に渡すと、すぐにそれはガラス越しの理性の元へと届いた。目の前のそれを見つめる。

「無理」

「しかし、このままでは勝てませんよ?」

「殺した時点で負けだから」

「なるほど。しかし、私とあなたは二人三脚、いや一心同体のパートナー。ここで何を恥ずかしがることがありましょうか」

「はあ?」明らかに下心を匂わせる物言いに、理性の声が少し大きくなった。弁護士のにやついていた顔がわずかに引き攣った。看守がいまさら息を呑む音がする。それらを認識しながらも、人文学科が廃止の方向で進んでいることもあり、一度暴走した理性は容易には止まらなかった。

「あんたさっきからいったい何を言ってるのよ」静かな面会室に、彼女の昂ぶった声はよく響いた。「殺すわよ」

 

「……」収容棟の二階には女囚の部屋が並んでいる。その一つの雑居房に、独り理性は膝を抱えて座り込んでいた。

 あのあと弁護士は形だけの謝罪を済ませたあと、逃げるようにして帰っていった。当然のことだと思って眺めていた。だって彼女は既にもう一つの命を壊した身なのだから。

「はぁ。今更嘆いたところでしょうがないわ」自嘲気味な笑みを浮かべた理性のその頬には、一筋の涙の零れ落ちた跡があった。「そう、自分で言ったとおり。殺した時点で負けなのよ」

 殺人は前からしてみたいと思っていた。だから殺したときも、そのあとも、警察に連行されていきながらも、理性の心に後悔はない、はずだった。

 しかしその結果が、これほど重く、これほど不可逆的なものだったとは。受験生のような閉塞感に覆われている。

「はぁ」もう一度ため息をついてから、彼女は殺風景な部屋の殺風景なテーブルを見つめた。その高さは低く、テーブルというよりも食卓と呼んだほうが良いような代物だったが、しかし真っ白で無機質なそれには、食卓という言葉の裏にあるどのような暖かさも感じ取ることはできなかった。

 テーブルの上に置かれていたのは、小皿の上のマッチ箱、それから白い薬包紙。その紙の上には黒、あるいは茶色の粉が数ミリグラム積まれていた。

「……」無表情でマッチを擦り、ぼうっと上がった火を粉に付けた。何度かの試行のあと、火は粉に点いてくれた。独特の色をした半透明の煙が上がる。その匂いを嗅いで、理性は微かに歓喜の声を上げる。

 その漂う煙を嗅けば、人はあっという間にハイになれる。陶酔感、高揚感、その他諸々のイケない感覚の、日常に押し込められた蓋を取り外して、刺激的でヴィヴィッドな世界へ自由に飛び上がらせてくれる。

 拘置所に来て雑居房の先輩にこの遊びを教わったときは、本能的な忌避がどうしても初めに来たし、未知に対する臆病な恐怖が彼女を阻んだ。それから半年。徐々に先輩たちに混じってトリップの片鱗を味わっているうちに、彼女は他の誰よりもこの遊びを楽しむ側に回っていた。

 今や漂う煙は単調な暗色を湛えてはいない。さっきから自在に形を変えて運動するそれは、これまで見たことが無いほどとびきりに明るく、とびきりに鮮やかな色だった。否、煙だけではない。壁面、床、ガラス、すべては今や自分だけの意志と気まぐれを持って、コンスタントに飛び回りながら虹色に光り続ける。視界に動かないものは何一つ無い。全てが絶え間なく飛び回り、変化する。空間はにぎやか。どこからか明るく楽しげな調律が響く。これは彼女が瞬きをするのに同期してより早くなっていく。おや、テーブルが浮き始めた。ぐるんぐるん。ぐるんぐるん。体操選手もここまではという複雑で気ままな回転は、やがて自分自身にも及んでいた。

「あははは、あは、あは――」ところで理性は雑居房の外へとふわふわと浮き出ていた。外界のカラスは楽しそうに笑っていた。空が浮かんでいるのか、地面が沈んでいるのか。よく分からないけれど、彼女はより高い位置へとくるくる回転している自分を感じていた。視界に微かに写る地面のビルディングは、頑張ってニョキニョキと生え出ようとしていたけれども、しかし彼女が浮かぶ速度のほうがはるかに大きいから、自然小さくなっていった。うん?いや、そんなことはないな。だってビルディングが地面につき刺さっていることのほうがおかしいわけだ。ほら、私の隣、ビルがびゅんびゅん飛び上がって緑色の月へと向かうよ。あ!行く先に飛行機があった!ビルが飛行機に突っ込んじゃった!

「あはは」理性はそれを見ながら笑っていた。衝突音はゴングの音だった。気づけば彼女は大きな音楽堂の観客席にいた。ステージにいた合唱団が声を揃えて歌う。

「You are a murder! A haha haha!」何を言っているのか分からないけど、その抑揚の中に彼女は落ちていく。沈み込むさきにはホッキョクグマがいた。こんにちは、クマさん!ユーカリの木が代わってお返事をした。「祖母はご壮健であられるかな?」よく分からないけど、私は元気です。なんだかだって幸せだもん。今の自分ならなんでも出来る気がする。

 

 

 ところで、彼女が吸っていた粉は志望校の大学パンフレットである。火が点くと思い焦がれるようになるが、その煙には倒錯的な快感とともに幻覚を引き起こす作用がある気体が含まれ、その名をやる気という。